終わりの間際はなんだって寂しい

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「終わり」の間際はなんだって寂しい。

そう言い聞かせることで、私はいくらか生きやすくなっているのだと思う。

この場合の生きやすいというのは、等身大の自分を認めるということ。自分のものさしで、好きなものに素直になるということ。

 

・・・最近、終わることが多い。

会社を退職した、関わっていたプロジェクトが終わった、旅が終わった、やりたいことをやり終えた。

いろいろ種類はあるけれど、そのどれもが「終わる」と同時にほのかな寂しさを残していく。

 

昔の私であれば、この何かが終わるタイミングではたはた弱り果てていたと思う。

器用に何事もこなせるタイプでない私は「終わる」ものも「終わらせた」ものも、何か理由があるのだと信じて疑わなかった。

縁があって始まっているのに、それが終わるということは何か問題があるのだろうと。

嫌われてしまったのかもしれない。力不足だったのかもしれない。

終わってしまって寂しいという気持ちがその自己嫌悪に拍車をかけて、私に原因があったのだと落ち込み続けて仕方がなかった。

 

ぐだりぐだりとしょうもない思想を広げていた多感な女子(私)は年をとって、最近になって気づいたことがある。

それは、終わりの間際はなんだって寂しいってこと。

四半世紀を生きているうちに特別おかしな体験をしたわけでもないのだけれど。

ただ、排気ガスで肌が荒れてしまった上野駅の家をでるときも、夜道が怖い高円寺の家をひきはらうときも、なんだか私の中の大切なものまで一緒に大家に受け渡すようで言い表せない気持ちになった。

上野の家をでるときは当時いっしょに住んでいた人の都合で私がどうこうできるものではなかった。

高円寺の家も気に入ってはいたけれど次にお世話になる素敵な場所が決まっていた。

つまり、私にはなんの非もなく、いってしまえばその場にとどまる理由もなかったのに。

それなのに、途端に歩いて行ける距離にあったドン・キホーテ御徒町店の水槽にいるアロワナや、高円寺駅から程よく離れたラーメン屋に揃っていたバスケ漫画の行く末が恋しくてしかたがなくなった。

 

このとき、自分に非がなくてもたいした理由がなくても、人は「終わること」に寂しくなれるのだと思った。

私はアロワナの顔は好きではない。

そりゃあちょっとキモ可愛いとは思うけれど、きっとドン・キホーテ御徒町店にいたのがアロワナでなくても私は思いをはせていた。寂しがっていたのだ。

 

だからきっと、ブラック企業からの卒業も、DV彼氏との別れも、なんだって寂しいのだと思う(DV彼氏と付き合ったことはない)

終わりというのはどうしたって寂しさをふくんでいて、ちょっとだけ自分のことを責めさせて、小さな思い出を大きなものに美化させてしまうのだと思う。

 

寂しく思う気持ちはまぎれもない本物だから大切にするとしても、物事の本質は見失わないようにしよう。

少しばかりの年を重ねた自分は、終わりの後には何かしらの始まりがあって、終わった分なにかまた違うものをかかえる余裕が生まれるってことも知っているから。

寂しいことは事実だし、終わってしまって悲しいのも今の私で間違いないのだけれど、自分を責めずに新しいことを着々と進めていきたい。

そのためだったら「終わり」の間際はなんだって寂しいのだと、自分に言い聞かせることで生きやすくしてもいいだろう。