「変わっている」と言われると、私はどこか安心していた

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変わっていると言われると、どこか安心した。

変わっていると言われるとき

初めての人と会った時。

ひさしぶりの人と再会した時。

自分のことを語る場面はたくさんあって、説明を受けた人は大体コメントを述べてくれる。オースゴイネとか、ヤバクナーイなどなど。

この評価により自分のテンションは右往左往。

そりゃあもう飛んだり沈んだりしまくるわけだけど、私は「変わっている」と言われるととても安心する。変わっている、万歳。万歳、変わっている!

だって、変わっているは理解を超えたものへの無関心だから。

「変わっている」という評価

そもそも、他者からのコメントとは評価だ。

スゴーイヤバーイと沢山コメントされたブツは世間一般からしてスゴイし、ヤバイ。

ウケルーとコメントされたブツは面白いのだと思う、今のその人や社会にとっては。

しいていえば、このコメントには大きなふり幅があるので、自分が思った意味とニュアンスが違うこともある。

例えば、小動物系で可愛いね、と、綺麗系で可愛いね、が同じヤバカワーにカテゴライズされるように。

ただ「変わっている」というコメントのふり幅は、その人の普通を逸脱しているって共通事項の中でしかない。

 

ここで話は昔にさかのぼる。

私がちっぽけな25年間で「変わっている」という評価を一心不乱に浴びた時期がある。

高校を中退した時だ。

高校を中退するというのは隠しようがなかった。

特に私は月火水木金とブラック企業がほくそ笑む全日制の学校から、たった週1日、土曜日だけ学校に通えばOKというホワイト過ぎてもはや影が薄い通信制の高校へ退入(退学入学)した。

制服という防御がはぎとられた私に注がれるのは「どうしてやめちゃったの?」という好奇のまなざし・・・

な、

わけもなく、

「へー、変わってるね」という無関心な言葉だった。

 

そりゃあそうだ。

だって、高校に行くというのは当たり前のことなのだから。

そこにどんな理由があろうとも、当たり前のことが当たり前にできなかった、その事実には何の変化もない。

だから、そこに生まれるのは理由を問う言葉じゃない。

自分の範疇を逸脱しました、という「変わっているね」

理由を聞く必要はない「変わっているね」

無関心の通告なのだ。

その通告をあびていた時、私は好きなものを優先し過ぎて高校という当たり前からこぼれおち、どうしようもなく等身大だった。

無関心、超きもちいい

等身大の私に向けられたのは、無関心という正当な評価。

私は心底、安心した。そして、無関心という名の自由に浸った。

無関心は「どうでもいい」とも置き換えられる。どうでもいい、つまり「何でもいい」

ひさしぶりに誰かと会った時。自分のことを説明する場面はたくさんある。

その時、やっぱり私は相手に伝わるように、分かるようにと説明してしまう。

そういう努力を重ねてしまうと、やっぱり高評価が欲しくなる。

可愛いと言われればネタで返していても内心ひどく嬉しいし、すごいと言われれば得意気になる。

なので、可愛いと言われれば次も可愛く。

好きだと言われれば好かれた私のままで。

すごいと言われればよくわからないけどすごい自分で常に。

いなくちゃいけないと思ってしまうのだ。勝手に。

でも「変わっている」と言われれば、無関心だと言われれば、何でもいいと言われれば。

肩の力をぬいてそのままの自分でいられたのだ。

変わっていると言われると、私はどこか安心して「いた」

最近、ギュッと締め付けられる言葉がある。

「楽しみ」という、たった4文字。

私が次にどんな記事を書くのか、どんな仕事をするのか、どんなことを始めるのか「楽しみ」という言葉だ。

それが、どこかで私の記事を読んでくれて出た言葉なのかはわからない。私も別にどこで記事を見たかとか、面白かったかつまらなかったか、感想は聞かない(ビビリで聞けない)

それでも、十分に気持ちはギュッと締め付けられる。

 

「楽しみ」というシンプルな言葉には、無関心が同居している。

何をしてもいい、どんなものでもいい。ただ、出るまでの間をワクワクしている。それだけなのだ。

期待しているのとはちょっと違う。期待という、決められた正解までにかける気持ちじゃないのだ。

自分の範疇を逸脱した何かが起きる気がする。だから「楽しみ」、そんな気がする。

「変わっている」と言われると、私はどこか安心していた。そんなわたしが、今は「楽しみ」という言葉がすごく響く。